お盆の帰省の途中で、クラゲの水族館を見に鶴岡に宿をとることにしたので、何かないかと調べた結果、なんと鶴岡・酒田は即身仏の宝庫と。
5寺に6体ある模様、時間は読めないので「事前予約が無くても見れるところ」をcopilotに聞いたら、3寺教えてくれたのでそれらに行くことにした。
- 大日坊(鶴岡):総本山ぽかったから→正解
- 南岳寺(鶴岡):ホテルの近所でラッキー
- 海向寺(酒田):2体ある
出羽三山信仰って広く浸透してたんだと思う、実家の近所含むいろんなところに出羽三山が彫られた石碑がある。
しかし、全然知らなかった。即身仏のことも、湯殿山のことも。
それぞれネットで調べたら色々わかると思うので、印象に残った聞き書きを。
大日坊
おじいに本堂と即身仏前で法話をしていただける。

- 即身仏になるのは、飢饉や疫病から人々を救うためではない。お釈迦様が入滅される際、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるとおっしゃったので、この世に身体と魂を残して弥勒菩薩を待つためである。
- 即身仏は左目が無いものが多い。浅間山の噴火で火山灰が南東北まで降ったため、眼病が流行ったそうで、その治癒を祈って修行中に片目をくり抜いていたとのこと。
- 弘法大師が大陸から帰ってきて、はじめに開いたのが湯殿山である。そのあと色々回って、四国に行って、62歳で入定したのが高野山奥の院である。だから高野山では今でも毎日、弘法大師にご飯をあげるのである(これは知ってた)。ということで、真言宗なんだね。
- 徳川家からの信仰心が篤く、春日局が奉納したものが多数。
- 今の出羽三山(湯殿山、月山、羽黒山)は江戸時代の比較的最近に作られたもの。本来は湯殿山は奥の院であり、三山は月山、鳥海山、葉山(寒河江)であった。葉山の慈恩寺が衰退し、徳川幕府と結びつきを強めた羽黒山の修験者が、今の出羽三山を再定義したのである。
- 湯殿山という「山」は地図上にはどこにも無い。山ではない。ご神体は割れ目からお湯が沸きだす赤い巨石であり、女の人のアソコである。
- もともとは42間×12間のバカでかい寺であり、1000人が寝ることができたが、明治に入り廃仏毀釈、神仏習合に抵抗してたら本堂を焼かれたとのこと。だから今はこぢんまりしている。たしかに、京都の三十三間堂を考えると42×12はバカでかい。1間=1.8mだとすると、75.6m×21.6m。
- え?1000人寝れる?とりあえず当時の人が身長が低く1.6m×幅0.5mだと仮定すると、47人×43人=2021人。結構余裕だ。
- 即身仏はミイラではない。生きながら土中入定(どちゅうにゅうじょう)されたものである。ミイラとは死体を防腐加工したものである。鼻から脳みそを引きずり出し、横っ腹から内臓を取り出して薬品で防腐するのである。(って、聴衆に子供たちもいたけど言ってた) だから、黒光りする即身仏はニセモノである。
- 入定するために、数年~十数年を木食(もくじき)修行;栗、クルミ、栃の実などの木の実を食べて修行し、入定近くなれば水と塩のみで過ごし、死期を悟れば漆の樹液を飲んで入定してもウジがわかないようにするのである。入定とは、土中に数メートルの穴を掘り、木の板の表面を焼いたもので部屋を作り、地上から通気口のための竹を刺して埋めるのである。土中では鐘を鳴らしながら読経し、鐘が鳴らなくなってから1000日以上のちに掘り返すのである。
- おじいは先輩から聞いた話として、漆は皮膚に触れるとかぶれるのに、飲むなんて本当かな、と思っていたところ、NHKの朝の番組で二戸の浄法寺が国内屈指の漆の産地と知って漆職人を訪ねて行った。職人は「一緒に採取に行くか?」と言ってくれ、ついて行ったところ、ペロッと樹液を舐めて確認していたという。聞けば、肌に触れるとかぶれるが、少量であれば舐めるのは問題ないとのこと。ただし、たくさん飲めば肛門がかぶれるのでやめておけ。最近は中国産の漆が輸入されているが、中国産は無味であり、国産は少し甘酸っぱいのだという。
- 通常、即身仏は12年に1度、衣替えをする。その際、取り替えた着物を切り刻んだものをお守りに入れているので、購入するように。
- 最後に、仏壇でチーンと鳴らすやつ(おりん?)の鳴らし方を教えてもらった。葬式など仏様に向けては、手前から奥に向かって外側を1回たたく。日々や生きてる人のお祈りは、内側を奥から手前に向けて2回。

南岳寺
おばあにお話を聞かせていただいた。時間ギリギリに行ったが、拝観時間を少し超えて見せてくれた。感謝。

- 当寺は火災に遭い全て焼けたが、即身仏だけ残った。お堂の仏像は全て寄進されたものである。
- 掛け軸も同様で、即身仏となっている鉄竜海上人が、寄進・普請の礼に各地で描いた掛け軸が、のちに寄進されたものである。サインの代わりに両手の手形が押してある。
- 掛け軸の一つは、鉄門海上人のものであり、達磨大師?がめっちゃ上手だった。鉄門海上人の即身仏は、今回訪れていない注連寺にあるそうだが、後で調べたらイカれてるので後述。
- 鉄竜海上人はもっとも新しい即身仏で、実際は明治12年に入定したが、明治に入って禁じられていたので、届出上は明治元年になっている。真言宗の寺は6つだけで、他は全て曹洞宗になってしまった。なぜだかはわからない。
- 鉄竜海上人は秋田県の農家の出身で、実家はまだあり、実家の方がお参りに来られたことがある。昔の僧侶は妻帯が禁じられていたので(浄土真宗は例外)、世襲はありえず、いろんな身分から出家した僧侶が継ぐことになっていた。
海向寺
酒田のお寺で、唯一2体の即身仏がある。日和山公園に隣接していて、境内に車が停められる。

- 黒光りする即身仏が2体。はっ!と思ったが、昭和の学術調査ののちに、防腐のためにニカワを塗ったそう。
- 同様の入定の説明を絵を見ながらしてくれて、一般的な説明としては一番わかりやすかったかも。1000日たって開けてみたときに、腐敗せずに残ってたものが即身仏になる、というのが印象的。失敗したのもあったということかな。
鉄門海上人
この人はマジやばい。以下、引用。
「
鉄門海上人は若い頃、川人足で血気盛んだったらしく、馴染みの女郎をめぐって武士と喧嘩し、誤って殴り殺してしまった。殺人、まして武士殺しは重罪である。進退窮まった鉄門海上人は、注連寺に駆け込みそのまま出家した。25歳のときである。そして、一世行人として修行を始めた。 湯殿山の一世行人が必ず行うのが籠山行である。湯殿山内の仙人沢という所で、穀物を断つ木食行を行うのである。期間は千日単位で、三千日(約10年)行う例が多いようだ。この籠山行の途中、馴染みの女郎がよりを戻そうとして訪ねてきた。鉄門海上人は「今は出家の身、女子は修行の妨げである」として追い返したが、その時、自らの睾丸を切り取って女郎に与えた。女郎はその後良客に恵まれ、多くの儲けがあったという。鉄門海上人の睾丸は「商売繁盛のお守り」として女郎の間を転々とし、現在は鶴岡市の南岳寺に納められている(学術調査で鉄門海上人の即身仏と血液型が一致し、上記の逸話は事実ではないかと考えられている)。 修行を終えた鉄門海上人は各地を行脚し、慈善事業に尽くした。その足跡は東北地方から四国地方におよび、200基近い頌徳碑が残されている。出開帳で江戸に滞在していたとき、悪性の眼病が流行ったことがあった。この時、鉄門海上人は自身の左目を刳り抜き、隅田川に投じて悪疫退散を祈願した。その功で「恵眼院」の院号を授与された。即身仏の調査で、左目が生前に摘出されていることがわかっており、この逸話も事実と考えられる。
鉄門海上人の生涯を描いた『鉄門海上人伝』
庄内に戻った鉄門海上人は再び穀断ち行を実施し、即身仏となることを志した。しかし、当時注連寺の住職であった清海上人の証言によると、風邪を拗らせてしまい、土中入定を行えぬまま入滅したため、信者が意志を継いで即身仏に仕上げたという。以前は享年62歳とされていたが、近年の研究で享年は72歳であったことがわかっている。伝承によると、文政12年12月8日に注連寺本堂で人々に馳走し、「われに祈願するものは諸願を成就せしめん」と遺言すると結跏趺坐をして息を引き取ったという。鉄門海上人の遺体は海水で洗ったあと、注連寺で百目蝋燭を使って乾燥させたといい、住職の清海上人は、この時の臭いが凄まじかったため、自分は即身仏を目指すのを諦めたと語っている。
」
実家に帰省して、町内の石碑を改めて見に行ったら、やっぱりあった。新・出羽三山。













































