ようやく、やりたかったことのひとつが叶いました。
これもタイミングなんでしょう。コロナがあったり、子供が成長してきたり。
高校からの友人から、オススメコースを提案され、ほぼその通り回ってきたけど、これがまた素晴らしかった。
旧大川小学校
はじめからそんなつもりで行ったんじゃないのに、そこにいるだけで涙は溢れて来るのよね。
なんか子供たちの声が聞こえてくるみたいで。モダンなレイアウトの校舎だったのね。
何十人も亡くなった子供たちと、子供をなくした、残されて未来をなくした大人たちに感情移入してしまって。ひとりで来ればよかった、とも思ったけど、子連れできたから余計にくるものがあるのかわからないけれど。子供を持ったから、他人事ではいられないということか。
陸前高田 震災津波伝承館
気仙沼からは20分少々。
実は気仙沼でもシャークミュージアムの入口のシアターは震災関係だったので、朝イチのウォームアップを経て、三陸道のICを降りる手前から高台移転した新しい集落を横目に、巨大な防波堤を見下ろしながら到着。
まず何より、防波堤の異様さ。この広大な更地の先の巨大な防波堤。ここにはもとは何があったんだろうかと思わずにはいられない。
はしゃいで駆けてく二人の子供が、だいぶ遠くに行ってから僕らを呼ぶ声が、やけによく聞こえたのは川に掛かった橋の手摺の影響なのかな。
堤防の上から海を眺める。この三陸の夏にありがちなジメッとした冷たい風と霧。
当然、喪服で訪れる方もいるし、その奥には高台移転。子供があまりうるさくしたら不謹慎ではないか、と心配する妻に、ただ同意するのも違うな、という気もしてる。
伝承館は情報量が豊富でしたね。
昔から数十年に一度訪れる津波で更地になる、を繰り返すことを宿命付けられた土地柄で暮らすということはどういうことか。
今回が前回以前と違うのは、鮮明な写真や映像が残るということと、津波が来て流されるものが昭和初期以前の木造の小屋主体から、自動車やビル、工場を含めた近代化された財産になって、失うものの価値が大きくなってしまったことが衝撃の大きさと比例してしまうのではないか。
被災直後の困窮した映像だけではない、その後のこの土地でのやり直しはどういう意味を持つのか。
この土地出身で、母と妹をなくした大学の後輩(年齢は同じ)は、当時すでに東京に就職していてその後どうしているか気にはなっていたが、OB会には二人目の子供が生まれたばかりのため不参加、という嬉しい理由で安心したところだった。
道の駅を併設していて、一本松天丼を食べずにはいられなかった。
ぜひ多くの人に、足を運んでみてほしい。
車はあったほうがいいので、遠くからならレンタカーがおすすめ。